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明日は彼岸ですね。

京都の東山の方にある墓地を見ると、いつも不思議な気分になる。
なんなんだろう、この気持ちは と思っていたら、こんな文章に出会った。

「私は、京の東山も鴨川も、まずは死者の世界であった過去をけっして忘れない。その記憶を尊重しながら眺める京都の、墓地という墓地には、さすが京都というにやぶさかでない他に卓越した風景美がそなわっていて、黒谷墓地にせよ、東大谷・西大谷や鳥部野の墓地にせよ、それは例えば東京の青山や雑司谷、下谷の大墓地なんぞとは比較にもならない。奥津城としての深みと静かさとにそれは美しく満たされている。死者が憩うている。

私は、いつもいつも死者の友ではいない。それよりも墓場を訪れてくるなお此の世にある人の気持ちなり面持ちなりに、ときに優しみを、ときに落着きを、ときには美しさを感じて、よそながら見とれているということが、まま、ある。人生を「ひとのよ」と訓(よ)みたくなる感じ、そして今自分は生きているのだなという思いを、心根に問い返している自分自身に、そういうとき気がつくのである。

思いもよらなかった懐かしい死者との出会いも、墓地では、ことに京都の墓地ではしばしば恵まれる。おや、あなた、こんな所にいらしたのですか・・・と思わず声などかけてしまう。そして振り返ってみると、ほど遠くもなくとある墓地に膝まずいて、じっと掌をあわせている生きた人の姿を見つけたりする。祈ることを久しい人のわざとしてきた遠い道のりを顧み、はっと我に返るのである。

嵯峨の二尊院裏の竹林に包まれた墓地がいい。落柿舎の裏墓地に俳人去来のちいさな墓石と向きあう風情もすばらしい。東では、詩仙堂にちかい金福寺の山墓地に、やはり俳人蕪村をはじめ数々の俳人墓が木深い山腹に点々としていて、いかにも死者たちの世界というにふさわしい。およそ京都の墓地では、妙ないいかたになるが、期待を裏切られたということが、まず無かった。しみじみと風白く心は洗われて寂しいなかに、死も、死の世界も、また一つの文化であるといった感慨を誘われる。寺といい宮といい、それらもみな死者の世界に半ばを超えて影を落しているのだ。そのことに気づかず、京都の風景をただ美しがってみても、はじまらない。」

―秦恒平 「京都感覚」より引用―
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by rocksaloon | 2006-09-22 19:48 | ヤミナベ
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